大宮の白井助七という人物

旧大宮市の歴史の中で、白井助七の存在は避けて通れないほど、大変重要な人物です。 白井助七がどういった功績を残したかを詳しく知らなくても、さいたま市の鐘塚公園の白井助七の銅像を見たことがあると思います。 白井助七は天保12年12月、大宮宿大門で生まれました。

 

彼は、旧大宮市の歴史を大きく変える運動を過去に行い、鉄道の街として、街を建て直しました。 かつて、大宮市は氷川神社の総本山があることで、門前町として大変栄え、それに伴い、宿場町にも、たくさんの人でにぎわっていました。 その後、明治16年に、上野から熊谷間の鉄道をオープンさせたのですが、大宮市には駅が開通しなかったことで、徐々にかつての賑わいも失せて、そのうち衰退へと進んでいました。 人や貨物が行きかう駅がないことで、その街の発展がみこめないことを知った白井氏は、大野伝左衛門、矢部忠右衛門、岩井右衛門八らと一緒に、駅をこの地域に設置するよう、請願運動を行っていました。 その大変熱心な活動によって、その2年後には大宮駅の設置が実現します。 その後、さらにこの駅のスタートに対して、鉄道材料工場建設の誘致を行い、これも成功を収めて、工場が建設されて、さらに街に活気が戻ってきます。
また、これだけでなく、駅をスタートさせたころを機に、その周辺の街づくりや道路等、鉄道の街、大宮市を発展させてゆきます。 こういった功績を仲間とともに、どんどん残してきたことで、明治28年に第3代大宮町長に推薦されて就任します。 その後、町長として、さらに街のために、さまざまな職務を遂行していましたが、町政の際中になくなってしまいます。